2015/01/03

烏の雛の話

Leica M3, Summicron 5cm/f2, INFORD DELTA 400

昨日は久々に、ライカを手に取って、粉雪舞う東京の街へ出掛けました。

声を掛けるなんて造作も無いことなのに、私の撮影スタイルはそうではないわけですから、結局いつものように、ただ一人の傍観者であり続けるだけでした。


50mmの視野の中で、ただ景色を捉えるだけの一日。

薄暗い部屋の中で、ただ肌を重ねるだけ一日。

人の前に見せることの出来る写真と、人の前で話すことのない事柄。

頭の中で結論を出すつもりのない話を鎖で繋いで輪っかにして、ただ一瞬の快楽だけを追い求めることを円の真ん中に置いて、人の少ない街の中をただただ歩くだけでした。

時折吹く冷たい風に、思わず首元のフードに付いた黒いファーを触ると、ふと頭の中に一羽のカラスの雛が思い浮かびました。


どこで聞いたか忘れましたが、カラスの雛を育てた話を思い出したのです。


カラスの雛は何かの拍子に巣から落ちてしまいます。
その雛は巣に戻らずとも巣立っていきますが、心配した人がしばらく保護をすることも少なくないそうです。

カラスの雛は人の家で餌をもらい、人懐こく家人の肩から肩へ止まって愛嬌を振りまきますが、ある日突然、家の外へ大きく羽ばたき、上空を二回ほど旋回して、そして、二度と姿を見せることはありませんでした。


そのカラスのように、たまたま、人の愛に満たされて過ごす時間もあるでしょう。

しかし結局は、カラスはカラスの寿命を全うするために羽ばたきます。そうでなければ、生きることが満たされないからです。


有名なゲシュタルトの祈りを引用し、取り止めの無い話を収束させていきましょう。

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。


私は私、貴方は貴方、そうであることは、素晴らしいこと。

そうであるならば、たとえ一人になったとしても、それは孤独とは呼びません。


写真は孤独な作業だと良く聞きます。
だからといって人や評価を気にするようでは、孤独は埋められても写真を撮る意味は満たされないのかもしれません。

巣から落ちたカラスの雛のように、可哀想に見えるかもしれません、何も出来ないように見えるかもしれません、孤独に思えるかもしれません。

しかしながら、例えそれで餌が与えられようと、与えられまいと、カラスはカラスとして、やがて空へ羽ばたいていくのです。

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